by MUNE MAEDA
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再会 short version 0.90 さまざまな巡りあいの中でも「再会」はちょっと違った喜びが これは突然の再会物語 注 フィクションであり、レース結果等は必ずしも正確ではありません。
79年1月重賞の京成杯4才ステークス9番人気で8着を皮切りに、競馬場に行って は写真をとった。その数 30戦あまり・・ただただ負けつづけたのである。例外は2回、一度は4歳6月の4才抽選馬特別。このとき彼以外はせいぜい1つ勝っている馬で、断然人気。単勝を当てた(連複は外れた)が当たり馬券を記念に残してあるので負けと同じか。もう一度は 6歳の夏私が四国に帰っているとき新潟競馬(函館競馬?)で2着に入った、これが8000円以上の配当で大穴、馬鹿にするなーと言いたくもなるなあ。その後彼の姿は知らない間に消え、地方競馬に行ったと発表された。 どこに行ったかわからなかったが、素直に私は馬主さんこんなに負けつづけた馬を走らせてくれてありがとうと言いたかった。3歳時の追い込みは、相手が弱かったから知らない間に先頭にたっていただけだったということは判って いたんだ。 成績は45戦3勝
その後の旅 同じ旅館同じ居酒屋で過ごし、翌日はまたお寺拝見。黒石寺から日本一の茅葺き屋根(720坪)があるという「奥の正法寺」というところへ、歩いて歩いてまた歩いて到着、曹洞宗東北地方の本山として今も修行僧が訪れるとあって、静かな堂々としたお寺である。 長い距離を歩いていった甲斐があった。正解 もう3日、いつまでも水沢に居るわけにいかず、ソロソロ出発だと言うことでどうしようか悩んだ。本当は青森県五所川原に行きたかったのだが、イブセイコーに出逢ったおかげで方向転換、懐かしい馬を求めて開催中の競馬場を探し、開催中 だった上山へ向かった。山形県に逆戻りである。上山温泉に泊まり翌日上山競馬場へ、ホウヨウスペンサーやエクセレントメグロ、タイアラシは10才で走っている。遠くに雪を抱いた山々が美しい、名物はこんにゃくらしいので食する、旨いものでもないが醤油がしみていて「らしさ」を堪能。その日はすぐさま新潟に向かう。明日新潟の三条競馬場に行く為だ。がたがたとっても寂しい鉄道に乗り 、夜遅く新潟市に到着したが、ボロボロホテルを見つけて寝るだけ、お金もないしね。 信濃川の河川敷にある、三条競馬場には驚いた、古いスタンドでコース内には畑があり、居るのが辛くなってくるような風情が漂う。レースには手を出さず、見るだけにした。(本当はお金が無くなってきたのだが)帰りはタクシーで駅に向かう、運転手さんの喋っている言葉がわからず困った。数千円しかないのでもう東京に引き上げよう。ちょっと疲れが出てきたし・・・急行に乗り込む。 日付も変わって西荻窪に到着 6日間ののちょっとした静かな一人旅の終わり 残金は 1820円
2002年3月に三条競馬場は廃止 2003年11月に上山競馬場は廃止された |
ラストレース short version 0.93
注 話はフィクションであり登場人物は架空です。レース結果は必ずしも正確ではありません。
「一着スズパレード 二着リキサンパワー 三着・・・」 アナウンサーの叫び声とともに僕の競馬は終わった。「オジサン、やっぱりはずれちゃった 若い馬はあまり知らないもん」でもそこにはおじさんの姿はない。一人で 暖房のない寒い喫茶店「パペット」でつぶやいた僕に、「わしも当らなかった」なんて答えは返ってこない。1985年1月 6日中山競馬場開催「金杯」。買ったのはサクラシンボリやアローボヘミアン達、皆6才以上(今の基準では5歳馬)、当てる自信もなかったけれど。
1978年2月13日、月曜日の朝入り口脇カウンターの端 (と言っても椅子は4つしかない)に座ってブラジルを注文、少したった後新聞を見ているマスターに一言。 「僕、東京4歳ステークス、取ったんです」 「へー」それはちょっと気のない返事、数秒たって、僕は 「ファンタストから買ったので」 「ファンタストから買ったら取れるよねー」 「ファンタストが好きなので、名前が良い感じでしょう」 「競馬するの」 「はー、少しだけですけど」 そのレースは4番人気だったファンタストが2着に入り断然人気のタケデンが負けたため、小波乱となったレースだった。当時、通っていた大学は御茶ノ水にあり、お隣の水道橋 駅近くの馬券売り場でたまに馬券を買っていたのだが、これはいけないこと。もっとも、買うのは200円馬券、まだ、ほんのたまに状態。ちなみにファンタストはその後、弥生賞、皐月賞を勝ってダービーで10着、夏、函館記念で3着に負けた後、たしか、腸ねん転をおこし短い一生を終えた。体が大きく、走る姿は頭が高く美しさには欠けたが、やっぱり名前が良かった。 ファンタストの馬主伊達さんは持ち馬になかなかセンスの良い名前を付けるかたでした。 話は元に戻して、パペットという喫茶店に顔を出し始めて8ヶ月、初めて「おじさん」との会話らしい会話がそれだった。それまで、喫茶店に入ってきたら「モカ ください」「ご馳走様」「ハイ200円」それくらいしか喋ってなかった。そのころの僕は、無口でにっこりするだけのちょっと変わった人間。(いまでもそうかな)一応、大学で建築学を学んでいて。おんぼろアパートから銭湯に行く途中にある「パペット」に寄っていただけです。 寺山修司さんの本にも登場したことがある、「パペット」は西荻窪にある小さな喫茶店。カウンター席が4つと二人がけのテーブルが一つ。トイレだって、階段の下にあり、僕(身長180cm)は頭を斜めにしなければ入れない。お客さんは近所の常連さんばかりで、当時20才だった僕は最年少。そして「おじさん」は福原勲という70才前のおじさん(おじいさん?)この会話がその後7年間学生時代のすべてと言っても良い、僕とおじさん関係の始まり。
おじさんと徐々に話をするようになってきた僕は、ほとんど毎日「パペット」に通うようになった。大学に行けば仲のよい友達が何人もいたけど、あまり自分のアパートに呼ぶことはなかった。ご飯もいつも一人で食べていたし、その方が気が楽で今でも好き。西荻窪にはパペットという自分の世界があった。結局、一度も大学の友達を連れて行ったことはなく、卒業。 いつのころからか、おじさんの馬券を買いに行くようになっていた。僕もおじさんもせいぜい一日2000円くらいだから、競馬を見るときの楽しみに買うようなもの。僕は血統論者で、買う馬券 は血統+人情派だったが、意外に黒字だった。ただし、競馬に関する本をたくさん買っていたので赤字といえば赤字。愛読書は「種牡馬年間」「競馬四季報」不思議なもので、血統やレースの成績が頭にどんどん入ってよく覚えられた。とりあえず、土日のスケジュールは固定されていて、午前10時頃お店に行きコーヒーを飲みながら馬の話、11時にはお店を出て東京競馬場へバイクで向かうか、水道橋の場外馬券場に。14時くらいには帰ってきて、競馬観戦。色々な人が出入りしてお話をして、18時頃閉店。何回これを繰り返しただろう。女の子にもてないからじゃないけど、デートする時間はなかった と、今でも言い訳している。「馬券買いに行くこと出来ないんだ」と言うと、おじさんが寂しそうな顔をするから。 西荻窪に居たいから大学院にも入った。勉強の為一年ほど海外に行く事に、結局そのまま東京から離れることになることになったけど、心の整理はなかなかつかなかった。1983年夏の新潟競馬が終わったころ僕は、出発。一年たって、東京に競馬が戻ってきたころ帰国して、田舎で仕事を始めた。家業の建設業、急ぎで橋の基礎を作る工事だ。おじさんに会いにたまに出てこようと思っていた。 京王杯オータムハンデの日に帰国。ちょうどレースが終わって、何人かがコーヒーを飲んでいるときに突然顔を出し、みんなびっくり 「おかえり、焼けちゃってなんか元気そうになったね。」 「ありがとう、お土産ないけどね」 次は毎日王冠の日、中二週(馬と一緒)で上京。ひさしぶりにおじさんの馬券を買いに行った。続いて、有力馬と同じスケジュールにて天皇賞に出走・敗退。しかし仕事が忙しく、ジャパンカップには上京できず、出てこられたのは有馬記念も終わってから。 有馬記念の前にゴメンねと連絡は入れていた。とりあえず西荻の駅を出ていつもの道を歩いていくと、看板が出てない。 「えーっ休みかなあ」近づいてみる、やはり休みのようだ。店先で立っていると。隣の八百屋さんが声をかけてきた。 「知らなかったの、今日おじさんのお葬式だったんだよ」 「えっ」とっさに理解できない。 「みんな言っていたよ、君がこのこと知らないんじゃないかって」 「うそでしょ」 もう、何がなんだか判らなくなった僕は、母に電話した。「おかあさん、おじさん死んでた、今日お葬式だった」ただ泣く僕に、母は「とりあえずおじさんの家に行きなさい」と。なんとか誰かに聞いておじさんの家に行った。手を合わせ、家族の方と少しお話をして少し落ち着きを取り戻せた。あまり覚えてない。仕事が忙しいので1月3日から現場に出る予定でちょっとだけ東京に出てき てた。帰らなければ行けない。でも、僕にはどうしてもしなければならないことが一つ。おじさんとの約束「もしおじさんが死んだら、最後に一レースだけ馬券を買って、それで競馬やめる。」2年ほど前、冗談のように言った、「その約束」を実行しなければ。仕事仲間には「申し訳ない。できるだけ早く帰ります。帰ったら頑張って働きます。」と「ごめんね」 そして今日、「約束した最後のレース」は終わった。おじさんの息子さんは「なんでも持って帰ってくれていいよ、親父も喜ぶだろうから。いつか喫茶店でもやってよ」と。「おじさんがやめたら、お前があとを継ぎなよ、おまえしかいないだろう。」とよく常連客に言われていた。四国から乗ってきていた「愛車ゴルフ」に看板、コップ、スプーン、マッチ、馬の蹄鉄何でも乗せた。さすがにイスまで持って帰るとは言えなかったけど。そして最後は、今でも会社の僕の部屋においてある年代物の大きなコーヒーミル。 「ちょっと、座っていていいですか」 「いいよ、しばらくしたら戻ってくるから、そのままで帰っていいよ」 去りがたい、思い出が詰まったコーヒーの香りがするこの空間。胸がどきどきして心臓が止まりそう。「ありがとう、目が真っ赤で、運転できないよ」田舎まで800km
気にかかっていたこと。10月30日、天皇賞が終わって、店を出て駅に向かう僕を見送るおじさん。振り返るとまだ店の前で立っている。見えなくなる角で振り返ると、まだ立っている。「来月のジャパンカップにまた来るから」そう言ったのに。今まで店を出てまで見送ってくれたことなんか一度もなかった。感じていたに違いない「これが最後」って。今でも僕の目に焼きついているおじさんの、あの「ひょこっと」立っている姿。体の具合相当悪かったらしい。家族には早く辞めろといわれていたらしい。そんなこと知らなかったよ。血を洗面器いっぱいに吐いて倒れたおじさん。僕とおじさんは「家」や「家族」の話はほとんどしなかった。だから知らなかったんだ。でも、僕とおじさんは「パペット」という喫茶店の中だけの世界で一緒に 時間を過ごしていた。ただの一度も一緒にどこかに出かけたことはなかった。ただそれでよかった。それが幸せだった。たぶんおじさんにとっても。
これが僕の「ラストレース」 やっぱり当らなかった、最後の馬券。 僕はハズレ馬券をカウンターに置いて店を出た。 もし当っていたら・・・。
この文章を書いている途中、西荻窪に行ってみた。西荻を出て22年、4回目。街は少し変わったけど新しい道が出来たわけでもなく、歩いている人の風情は同じだ。南口を出ると、ダンゴ屋がない、とん金、松屋、珍味亭はあるぞ、ズーッと歩いて松庵、うそっロンドン屋がまだある。当時の年齢を考えると、あの夫婦がやれているわけがない。安い定食を食べたものです。秋刀魚焼き定食380円なり。僕の住んでいたアパート長屋は切られて僕の住んでいた部分だけなくなっている、むなしい。おじさんが昔住んでいた家は当然なくなって新しい誰かの家に。ぐるっと回って駅に向かう道に出た。パペットの跡はアンティックショップ?これは以前と同じ。斜め前のキッチンキャロットお昼時だけど相変わらず満員。外に人が並んでいる。一度移転した後、20年以上満員の店を同じ場所でやっているなんてすばらしい。当時「値上げしたいけどどうかなあ」なんて悩んでいたマスターの顔が懐かしい。やっぱり安いままだ。食べたかったけど時間がないので断念。お向かいの八百屋さん望月さん健在 白髪頭になっているけど。駅に向かってうろうろ楽しい1時間。松屋で豚生姜焼き定食を食べたが、値段が25年前と変わっていないのは世の中どうなっているのだろう。 ご飯を食べていた安田さん親子のお店もなくなっている。もう来る事はないな、そう感じた。一つの区切りが出来たと思う。その後の「パペット」の常連さん達どうなさっているのだろう。
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