stone instruments 石の音

長谷川 修一

香川大学工学部長谷川修一1

前田仁没後も前田仁を想い続けてくださる先生の原稿を抜粋し掲載させていただきます 感謝

長谷川修一

 1955(昭和30)年、島根県松江市生まれ。1978(昭和53)年、東京大学理学部地質学鉱物学科業。1980(昭和55)年、東京大学大学院理学系研究科修士課程修了。四国電力株式会社入社。2000(平成12)年、四国電力株式会社退職、香川大学工学部助教授に着任。2002年から、香川大学工学部教授。地震災害、地盤災害、地域防災を専門とする。理学博士。技術士(応用理学部門)。1985(昭和60)年刊『上に立つ者の人間学』(船井幸雄著、PHP研究所)以来、船井幸雄の著作のほとんどを読破、自称船井幸雄研究家。2000年、高松市文化奨励賞受賞。日本応用地質学会理事・中国四国支部長など公的機関の役員・委員も多数兼任する。 香川大学工学部長谷川研究室ホームページ http://www.eng.kagawa-u.ac.jp/~hasegawa/


サヌカイトからのメッセージ    ―真善美から聖へ―         香川大学工学部長谷川修一2       

1・はじめに

 「人は死んだらおしまい」であるか、「人は生まれ変わる」ものかは、生き方にとって本質的なことではないでしょうか?もし、「人は死んだらおしまい」と教えられたら、自分の利益や欲望のためには、良心に反しても、自分勝手で、刹那的で、損得だけの生き方を選んだほうが得です。戦後のGHQ による教育改革、さらには平成の構造改革によって、このような人が増えたとかんじませんか?

 逆に、自分の行った行為はいずれ自分に返ってくるという因果律が、死んでからも成り立つ世界に生きていると思えば、良心的に生きることが人のためでもあり、自分のためだと考えます。更に、人は魂を成長させるために地球という学校に生まれてくる、しかも1回1回の人生にはちゃんと果たすべき使命(宿題)をもって生まれてきているのだとすれば、使命に向かって前向きに生きることができるのではないでしょうか。

 2008 年3月11日に享年80歳で今世の役割を果たされた前田仁先生が創作したサヌカイト楽器は、「天使の音色」「大宇宙の響き」「太古の音」などと世界の音楽家や宗教家等から絶賛されています。商品として販売も宣伝もしていないのに、世界各地からその道の一流の人たちが、前田さんの人柄とサヌカイト楽器の魅力に惹かれて、香川県坂出市金山にある前田さんの「けいの里」に訪れました。

 私は、船井幸雄先生と同じく、音楽には関心のない人間です。正直言って音楽がなくても生きてゆけます。その私が、1989 年、前田さんのサヌカイトひと敲たたきで、完全にサヌカイトの虜とりこになりました。地質学を勉強したので、サヌカイトは知っているもりでした。しかし、前田さんのサヌカイトは魂(小宇宙)に響く、大宇宙の音「オーム」そのものでした。以来20年間、前田さんの生き方や創作から多くのことを学ばせてもらいました。

 本稿では、前田さんがサヌカイトを通じてひたすら追求した「真善美」から「聖」の世界を紹介したいと思います。ただ「百聞は一見(聴)に如かず」ではありませんが、私のつたない文章では前田先生のサヌカイトの音色を伝えることができないことを、お許しください。前田先生とサヌカイトについては、ご子息の前田宗一さんが管理するサヌカイトのホームページ(www.sanukite.com/index.html)をご覧いただければと思います。

香川大学工学部長谷川修一3
2・サヌカイトとは

 讃岐は香川県の古いにしえからの国名です。讃岐平野は四国の北東部にあり、北に瀬戸内海を臨む東西にのびる細長い平野です。讃岐平野の特徴は何といっても、平野の中に浮かぶ台地状あるいは円錐状の美しい小山が群立することです。前者の台地群は、高松市屋島などの山頂に安山岩等の火山岩を頂く開析溶岩台地(メサ)です。また, 後者は飯野山(讃岐富士)に代表され、小山の山頂には安山岩等の火山岩が載っています。両者はともに瀬戸内火山岩類に属し, 約1400 〜1200 万年前の火山活動でできた溶岩層等が1000 万年以上の歳月をかけて侵食されたものです。讃岐の瀬戸内火山岩類は讃岐層群と呼ばれています。

 サヌカイト(讃岐岩)は、讃岐地方を代表する瀬戸内火山岩類の構成岩石で、ハンマーでたたくとカーンカーンという音を奏でるため、讃岐では古くから「かんかん石」と親しまれてきました。サヌカイトは, 黒色緻密でガラス質石基を多く含む安山岩の一種で、ドイツの地質学者であるヴァインシェンク博士が、東京帝国大学で初めて地質学を教授したナウマン博士がドイツに持ち帰った試料を研究して、代表的な産地である讃岐にちなんでSanukit(英語名はsanukite)と1891 年に命名しました。

 サヌカイトは、主として高松市西部の国分台地の青峰・白峰・蓮光寺山そして坂出市の城山・金山の山頂部に分布しています。サヌカイトがまとまって産出するのは坂出市周辺地域ですが、大阪府と奈良県の境にある二上山からも産出します。

 サヌカイトは地元では鐘用のため少量採石されてきました。また、風化したサヌカイトは独特の形をしているので、古くから庭石としても賞用されてきました(写真1)(★)。

 屋島山上で売られているサヌカイトは蓮光寺山産で、国分寺町の宮脇磬子さん製作の自然石を活かした民芸風のサヌカイトです。蓮光寺山産のサヌカイトは、棒状や細長い板状の形をしているので、そのまま石琴として使用することができます。

 これに対して金山産のサヌカイトは塊状の形をしているので、そのままでは良い音が出ません。地元では、「ちんちん石」と呼び、石垣などに利用していました。金山のサヌカイトも前田さんと出会うまでは、「かんかん石」ならね「ちんちん石」でした。石の持っている驚くべき能力を引き出したのが、前田さんなのです。

3・前田仁先生のサヌカイトとの出合い    香川大学工学部長谷川修一-前田仁4

 前田さんは香川県高瀬町( 現・三豊市) に1929 年に生まれ、東京工業大学で化学工学を修め、南カリフォルニア大学へ留学し、研究者を目指す学究の徒でした。留学先の米国で、日本もいずれアメリカのような車社会になると予想した前田さんは、政治家の兄を支援するため地元に戻り、採石や道路舗装の会社等を創業します。会社は高度成長の波乗り、若くして県の長者番付に名をのせるほどになったそうです。しかし、会社を大きくすることには一切興味を持たず、「人間50歳までは理屈が通るが、それをすぎたら、理でなく情で生きなさい」との母親の遺言に従い、京都の種智院大学に3年間聴講生として通います。それから、お寺さんを通じて文化人の人脈が一挙に広がります。

 前田さんは1970 年代に地元の依頼を受けて、坂出市の金山を購入します。しかし、サヌカイトは硬すぎて道路の砕石には向きません。また、地元との約束で山麓に宅地を造成しましたが、造成時に掘り出したサヌカイト岩塊の使い道がなく、やっかいものでした。

 ところが、1979 年、京都大学の東村武信教授らの研究によって、その金山東斜面産のサヌカイトが瀬戸内を席巻した古代石器の産地であったことを新聞で知った前田さんは, サヌカイトを使った楽器製作の研究に全財産と人生をかけて打ち込みます。楽器作りを始めて10年の間、担当の社員にはサヌカイトで楽器作りをしていることを家族にも話させないほど徹底した情報管理を行って独自のサヌカイト楽器を開発し、石の楽器に関する特許を取得しました。

 「石の楽器お披露目コンサート」は、1986 年に武蔵野音楽大学ベートーベンホールで開催されました。また、同年には前田さんは京都の大徳寺で天才打楽器奏者ツトム・ヤマシタと運命的な出会いをします。そのときツトム・ヤマシタは、すべての演奏活動を一時中止し、世界的打楽器奏者としての名声を捨て、故郷の京都に戻って、東寺で仏教音楽を研究していました。最初は、サヌカイトにさほどの関心を示さなかったツトム・ヤマシタも、門跡の進めに従ってやむなく金山を訪れ、そこで前田さんの新しいサヌカイト楽器の琮(筒状のサヌカイト)の虜になります。

 以後前田さんとツトム・ヤマシタの二人の天才によってサヌカイト楽器は進化し続けます。 1987 年、ツトム・ヤマシタは招待されてスコットランドのエジンバラ音楽祭で、初めてサヌカイトの演奏を披露して、観客を驚嘆させます。このとき、音楽雑誌にツトム・ヤマシタはフェニックスのように復活したと賞賛されました。これは、ツトム・ヤマシタの復活だけでなく、サヌカイトの2000 年を超える眠りからの復活でもありました。以後、前田さんのサヌカイト楽器とツトム・ヤマシタは、世界各地の音楽祭で観客を魅了します。

 また、前田さんのサヌカイト楽器とツトム・ヤマシタは、1988 年、総本山善通寺で「サヌカイト供音式」という新しい宗教音楽を作り出します。仏教なら声明、キリスト教では賛美歌、これらを融合したかのようなツトム・ヤマシタのサヌカイトの演奏は、音楽を超えた宗教の領域に達しています。私は、善通寺の「サヌカイト供音式」をビデオで聞くだけで、魂が浄化されるような感覚になりました。「サヌカイト供音式」は、薬師寺、延暦寺、東大寺、建仁寺などの寺院だけでなく、イタリアのアッシジや世界宗教サミット等で宗教、宗派を超えて行われています。

 通常は、演奏者は楽器の上位にあり、演奏者が楽器を選びます。しかしサヌカイト楽器は演奏者が勝手に演奏することはできません。前田さんは、サヌカイト楽器の本質がわかり、サヌカイトを活かすために自己犠牲ができる演奏者しかサヌカイト楽器を使わせませんでした。サヌカイトの演奏では、演奏者でなく、石が主役なのです。

 サヌカイトにも欠点があります。それは、硬いけれど割れやすいことです。ですから精密機械を扱うような繊細な注意が必要です。粗雑な人が敲くと簡単に割れてしまいます。

 前田さんが心を許したツトム・ヤマシタはよく前田さんに、「石を制するのではなく、石に従うのがサヌカイトの演奏の作法だ。石をうまく使うのではなく、石にうまく使われないといけない」と語ったそうです。

4・サヌカイト楽器     香川大学工学部長谷川修一-サヌカイト1 香川大学工学部長谷川修一-サヌカイト2 香川大学工学部長谷川修一-サヌカイト3

 前田さんは、これまでのかんかん石の石琴とは別次元の、「琴(Kin)」、中国古来の石の楽器である「磬(Kei)」、釣鐘状の「琮(Sou)」、切り目がたくさん入った「琅(Rou)」を創作しました。前田さんのサヌカイト楽器は、写真のように美術品でもあります。文章で、その音色をお伝えできないのは本当に残念です。

 石琴は自然石のサヌカイトでも作ることができます。しかし、自然石のサヌカイト楽器と前田さんのサヌカイト楽器の違いは、精密な調律にあります。つまり、何ミクロン削ると、何ヘルツ高くなると、計算されて加工されています。だから、超一流の音楽家の演奏にも使用できるのです。単なる、石からいい音がする珍しい楽器ではないのです。しかも、サヌカイトはピアノの88鍵を超えて、100 鍵までの超高音域まで奏でることができます。 「磬」は古代中国で政まつりごとや仏事に使用されていましたのを、文献に基づき前田さんが復活させたもので、台湾の孔子廟や薬師寺などに寄贈されています。エネルギーが集中した音色で、因縁を断つ音と表現されています。

 切り目がたくさん入った「琅」は、敲くところで出る音が異なり、しかもそれらが共鳴して、不思議な音となります。あるときは水が石をたたくような音、あるときは大宇宙の根源のような音となります。 また、耳で聞いただけでは、音が出ていないような琅に圧電素子をつけると振動が電気信号として増幅され、建物や体を響かす重厚な音が出ます。サヌカイトという天然の素材と科学技術の合体によって、楽器にはない音を創造することができます。

 「石の本質を知らずに、ものまねで作ってもいい音が出ない」とは、前田さんの口癖です。 釣鐘状の「琮」は余韻のあるまろやかな音色がでますが、これは金属の釣鐘と異なり、琮にはくりぬいた中に芯が残っているためです。芯のない釣鐘状の琮は、さっぱり音が出ません。また、ミニサイズの琮は星が瞬くような高音を奏でます。 「サヌカイトは石なのに、どうしてかーん、かーんという金属音がなるのか?」「前田仁博士の創作したサヌカイトホーンは、どうして人を感動させる神秘的な音色を出せるのか?」とよく聞かれます。

 前田さんは「石がすばらしいのだ」と常々語っていました。私はサヌカイトの音の秘密を解き明かそうと、サヌカイトの物性を調べてみました。試験の結果、サヌカイトP波(縦波)伝播速度は乾燥状態で秒速約6030mで、庵治石細目の秒速約4760mより約2割大きいことがわかりました。また、サヌカイトの吸水率は0・04%で、庵治石細目の0・33%より桁小さいのです。サヌカイトは、最上級の石材である庵治石細目と比較しても、極めて緻密であることがわかります。サヌカイトから美しい金属音がでるのは、非常に緻密で、P 波伝播速度が大きいため、動弾性係数も他の岩石と比較して際立って大きいためと考えられます。でも、これだけではサヌカイトの音の特徴は説明できません。

 前田さんによれば、サヌカイトからは基音だけでなく倍音もシャープに出ます。また、2万ヘルツを超える耳に聴こえない超音波がふんだんに出ているそうです。この聴こえない音が聴こえる音を支えているのが、サヌカイトの音を快く感じる秘密のひとつであるようです。これまでのCD は2万ヘルツ以上の高周波はカットしたので、サヌカイトの本当の音を再生することができません。このため、ソニーが発売した10万ヘルツまで再生できるスーパーオーディオCD を用いツトム・ヤマシタの「懐かしき未来」をリリースしました。 前田さんのサヌカイト楽器は西洋の科学技術と東洋の精神が融合されています。

 まず、サヌカイト楽器は、石の特性を活かし、ミクロン単位まで精巧に研磨して製作されています。ここには、科学に裏打ちされた加工技術があります。また、楽器としても他の追従を許さない稀有な価値があり、東洋的な美術品としても通用します。そして、なによりもその音、波動は人を癒すだけでなく、魂を浄化する高い精神性と霊的な力があるのです。

 石は木材や鉄と比べてなかなか朽ちません。特にサヌカイトは他の岩石と比べて緻密で空くう隙が少ないため風化に対して非常に強い性質があります。地質学の視点から文化財を研究している朽津信明さんによれば、サヌカイトには1000 年で数ミクロンしか風化による白い皮膜(水和層)ができません。これは、サヌカイト楽器は1000 年先にもほとんど変わらないことを意味しています。前田さんが50歳から創作したサヌカイト楽器は、1000 年たっても朽ちず、平成の国宝になるでしょう。

5・金山との深い縁

 人類のサヌカイトとの出合いは旧石器時代にまでさかのぼります。 旧石器時代から弥生時代まではサヌカイトが瀬戸内圏の主役でした。サヌカイトは、ガラス質で緻密、硬質で、かつ流理に沿ってはがれるように割れやすい性質があるため、打撃によって割って各種の石器などを容易に作ることができます。しかも、エッジが鋭く、他の石と比較して切れ味が抜群です。 サヌカイト製石器は、初めは国分台遺跡群(高松市国分寺町)や瀬戸内の島嶼部や丸亀平野などから産出し、約2万年前の最終氷期には標高400m 付近の国分台がサヌカイト石器の中心地であったことがうかがわれます。

 その後、坂出市金山産のサヌカイトが主流になりました。縄文時代、弥生時代にかけて、坂出市金山産のサヌカイトが瀬戸内を席巻し、太平洋側や日本海まで流布しました。これは、他のサヌカイト産地が丘陵の山頂部にあるのに対して、金山東斜面では山頂部(標高約280m)のサヌカイトが大規模地すべりによって標高100 〜150m付近まで滑落し、しかも砕けた状態で採取できることが決め手になったのだと思われます。つまり、金山東斜面は地すべりによる天然のサヌカイト採石場で、しかも海が間近で流通上も有利な立地条件があったのです。 しかし、青銅器の時代になって、サヌカイトは次第に生活の道具としての地位を奪われ、鉄器の時代になるとすっかり忘れ去られてしまいました。

 坂出市にある金山の東斜面は、瑠璃光寺、金山神社、霊泉・野沢井などの旧跡があり、讃岐の国の歴史が凝集したところです。金山神社は金毘羅神社の元宮と伝えられており、金毘羅神社は金山神社から別れたので、別れの宮と呼ばれています。このため、金毘羅さんには、アベックは別れるからお参りしないほうがよいと地元では信じられています。 また、瑠璃光寺は行基菩薩が、「東方浄瑠璃世界の主、薬師如来、現の地なり」と、金山大権現謁し給いて開基したと伝えられています。

 金山が伝説は、古墳時代までさかのぼります。―景行天皇の時代、日ヤマトタケルノミコト本武尊の王子で武勇に優れた武殻王は、讃岐の国に出没する悪魚退治に金山を訪れ、金山大権現さんの神木で船をつくり、88人の兵士ともに悪魚に立ち向かった。しかし、五色台沖の乃生岬を回ったところで、悪魚に飲み込まれてしまった。兵士たちは、船のたいまつが燃え上がり、悪魚がのたうちまわるのをとらえて反撃し、兵士たちは浜に打ち上げられた。悪魚の中から武殻王に助けられたが、悪魚の毒気に当てられ死んだようになっていた。そこに、童子が現れ、金山東斜面の泉の清水を兵士に差し出すと、彼らは生き返った。この泉は八十八の霊泉とよばれるようになった。また武殻王は、讃岐の地に留まり、讃留霊王と称された―

 時代は下り、1156年の保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐に流され、金山のふもとの雲井御所に入ります。その後、上皇は南の城山のふもと鼓岡にある木ノ丸殿に移りますが、1164年、崇徳上皇は鼓岡で亡くなります。崇徳上皇の死因は病死とも自殺とも明らかでありませんが、地元では崇徳上皇は金山で暗殺されたと伝えられています。そのご遺体は、都からの沙汰を待つ間、八十八の霊泉(その後、野沢井と呼ばれる)につけられたと伝えられています。

 崇徳上皇は死後の贈り名で、当時は讃岐院と呼ばれていました。崇徳上皇は、幼少より和歌・管弦の道に通じ、多くの名歌を詠んでいます。百人一種の「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思う」は、讃岐の地で都への募る心を詠んだ歌として有名です。 崇徳上皇の墓所は、1164 年に五色台西部の白峯寺に造営されました。上田秋成の雨月物語「白峯」には、上皇の死後、墓所を訪れた西行法師が崇徳上皇の霊と語り合う怪談が描かれています。西行法師が一晩中お経をあげ、霊をなぐさめていると突然稲妻が光り、怨霊となった上皇が現れ、怨みを述べられた。西行が「よしや君 昔の玉の床とても かからん後は何にかはせん」と歌でおなぐさめしたとこころ、崇徳上皇の霊は表情を和らげ、消え去ったとのことです。

 そして20世紀後半に、前田さんは、地元の依頼を受け、金山を購入し、瑠璃光寺、金山神社、霊泉・野沢井を所有することになります。その金山東斜面産のサヌカイトが、古代石器の素材であったことを新聞で知った前田さんは、サヌカイトを使った楽器製作の研究を開始し、世界中の音楽家だけでなく、宗教家、学者などを「太古の音色」「天使の響き」と驚嘆させるサヌカイト楽器を創作し、金山の東斜面に「けいの里」を開設しました。ワシントン州立大学から教育学博士号を授与された前田さんは、まさにDr.Sanukite(讃岐岩博士)です。

 私は、前田さんの過去世は讃岐院ではないかと連想しています。その理由は、不思議と前田さんと崇徳上皇は共通点が多いからです。まず、前田さんは京都のお寺と深い縁があり、ツトム・ヤマシタと出会った大徳寺の近くには、崇徳上皇を祭った白峯神社があります。崇徳上皇は、京から讃岐へ流される途中で高松の北方にある直島に立ち寄ります。直島には前田さんが戦時中に勤労奉仕に行った三菱の精錬所があります。そして、ともに金山で晩年を過ごします。

 前田さんが崇徳上皇なら、ツトム・ヤマシタは当代随一の歌人であった西行法師でしょう。京都にある西行庵は大徳寺塔頭真珠庵の浄妙庵を移したものです。ツトム・ヤマシタが仏教音楽を研究し、「サヌカイト供音式」を創造したのは、歌人としての才能に加えて、武士から仏門に入った西行法師の過去世と無縁ではないように思うのです。私には、いつも前田さんが崇徳上皇と、ツトム・ヤマシタが西行法師と重なって見えるのです。そのような過去世を踏まえたうえで、前田さんとツトム・ヤマシタは権力闘争を超えた仏の世界をサヌカイトで伝える使命を果たすために、この時代に生を受けたのではないでしょうか。

6・真善美から聖へ

 前田さんのサヌカイトの周りには、多く音楽家、芸術家、宗教家、技術者や研究者だけでなく実業家も多く集まってきました。私も貞広里美さんと共に船井幸雄先生を度々金山にご案内させていただきました。 船井先生は、金山をシヤシロチとして紹介されています。サヌカイトを通じた付き合いには、原則としてお金のやり取りはなしです。前田さんは、作ったサヌカイトを宗教施設や大学の博物館などに寄贈しましたが、決して販売しませんでした。また、貸し出すときも、貸出料はいただかず、すべて持ち出しで演奏会などの協力を惜しみませんでした。逆にサヌカイトへの技術協力も、ボランティアが基本でした。もちろん、サヌカイトの楽器を製作する社員には給料は払いますが、それ以外の関係者は無償の奉仕の精神でサヌカイトに協力させていただくのです。サヌカイトめぐる交流には資本主義を超えた世界がありました。 また、前田さんはサヌカイトで儲けようとか自分を売り出そうとする人たちは、全く寄せ付けない厳しさがありました。その一方で、ねむの木学園や地元の小学校などに出向き、子供にサヌカイトに触れてもらうのを愉しみにしていました。厳しさと慈愛に満ちた聖人でした。 その前田さんから学んだのは「真善美から聖を目指しなさい」ということです。「真」とは、科学的なアプローチが基本であることです。非科学的なアプローチでは他人を納得させることはできません。

 「善」とは、技術は善なる目的につかうべきだということです。サヌカイトは人を傷つける武器としてではなく、人を幸せにするために使いたいものです。 「美」とは、技術がいくら優れていても、芸術性がなければ人の心を動かすことはでません。20世紀は科学と技術の融合の時代でしたが、21世紀は技術と芸術の融合の時代です。「聖」とは、高い精神性で、真善美を通じてめざす宗教の領域です。つまり、真善美は聖へいたる過程なのです。

 前田さんの今世の使命は、サヌカイトの音によって「真善美聖」に目覚めさせ、魂の浄化を助けることだったのではないでしょうか。前田さんのサヌカイト楽器は、ご子息の前田宗一に託されました。私たちは前田さんの遺志を引き継ぎ、サヌカイトの精神を世に広め、伝えたいのものです。

本稿を、神として私たちを見守っている前田仁先生の御霊に捧げます。