芸術作品の根源

 いつになく大きな写真がいきなりどーん 写真家BANAZO氏が撮影した栗林公園 長谷川章デジタル掛け軸風景 23日に中央の建物入り口で小松玲子さんが演奏 この写真は最終日25日のモノ たくさんの写真の中から一枚掲載させていただきます 投影された映像より蒼い光の流れに芸術性を感じた これは私の判断 BANAZO氏なら違う写真を選ぶだろうし ブログを見てくれている人も当然違うだろう これが芸術ですが ついでに写真の方が実際より芸術的である 難しいことです 撮影された25日 それはそれは寒い日で人も少なく撮影には良かったのかもしれませんね

 

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 最近私の心に残ったある言葉 それは霊感の強い人達が私に伝え語りかける 私の行動・考え方への教えでも賛美でも警鐘でもない 本を読んで印象的だった言葉でもない ある人が私にメールで送ってきた「散漫」と「本質」という言葉だ つまり今私がやっていることは「散漫」に見え 「本質」を見つめていないと云うこと 今の私に対するかなりな否定ではあるが ここで腹を立ててはいけない すぐに反省する私は(笑顔で 素直だ) よーく考え込んでしまう ちょっとうなだれ気味に

 「散漫」は良く判る 人に言われなくても気づいている 仕事もいくつかの関連性のない職種で走り廻り サヌカイトは「命をかけている」と言いながら 本格的なコンサートから小さなライブを制作し CDを録音したり編集したり 楽器も新しい楽器を考えたり 今ある楽器を改良したり イベントを引き受けたと思ったら 石器だったサヌカイトの考古学 さらにジオパークの勉強をしたり 金山自体の研究も いったい何がしたいのか 散漫に見えるのが普通かも バタバタも甚だしいから人に迷惑もかける 何となくボチボチこなしていくところがまた悪い いつも時間なく走っている姿は滑稽である こんな人間じゃあなかったのになあ と

 「本質」は 確かに散漫なら逆の方向に存在する サヌカイトに対する姿勢を変えなさいと云うことなのか 何かを捨てなさい じっくり考えなさいと云うのか かなり前から 私のサヌカイトに対する考え方に全くブレはなく 目指す方向も自分が生きている間にやっておきたいことは決まっているから そこへの到達方法がおかしい(のではないか) ヒントが欲しい 哲学書か 誰かの生き様を・・・

 「われわれが経験しえる最も美しいものは神秘です それはすべての真の芸術と真の科学の源なのです」(アルバート・アインシュタイン) 人は この世の生命についてその本質を知りたいと求めても ある限界に至る その先にあるであろうものは 神秘 さらに生命の死についても同様に その先にある生命の本質に至ることは通常では困難 我々が何らかの形で わずかでもその神秘を知ったときが本質発見の機会になるのではないか 天才であり科学の追究者としてのアインシュタインは 宇宙の法則の中に神の存在をみたようで しかし 神秘と思った時点で本質の追究はどうなる

 宗教的になるわけでもなく 本質を追求すると云うことは 研ぎ澄まされていくと云うことで「俗な」ことから離れていくことが必要にならないだろうか  サヌカイトの音を追求することで得られる事はなんだろう 他の楽器(物質と云っても良い)には出せない響きを得ることか もっとも追求の方法(道)も大事なことならそのものがまだ解っていない 試行錯誤で良いのか 問いかけるけど答えは帰ってきません 回り道でもかまわない 目指す山が違えばそれは困ったこと 助けてくれーい   

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Mハイデッカーです 当然難しい でも彼の本の中ではわかりやすい 私は解りません はい

抜粋 

 芸術作品の根源への問いは芸術の本質への問いとな る けれども芸術はそもそも存在するのかそしてそれはどのよ うに存在するのか という決定は未決のままにせざるをえないのだから われわ れは芸術の本質を 芸術が疑いなく現実的に支配しているところに見出すことを 試みよう 芸術は芸術-作品の内においてその本質を発揮している しかし 芸術の作品と は何であるのか そしてそれはどのようにあるのか

 芸術とは何であるかということは 作品から取り出されるべきである 作品とは何である かということを われわれはただ芸術の本質からのみ経験することができる 誰もが容易に気づくことだが われわれは堂々めぐりをしている ありきたりの常識は この循環が論理学に違反しているという理由で それを回避するように要求する 芸術とは何であるかということは 眼前にあるさまざまな芸術作品の比較考察を通じて芸術作品から芸術作品に即して引き出されうる と人々は思っている しかし われわれがあらかじめ芸術とは何であるかを知らないなら そのような考察のために実際にさまざまな芸術作品を基礎に置くことに どうしてわれわれは自信をもてるだろうか しかし 芸術の本質は眼前のさまざまの芸術作品の特徴を寄せ集めることによっては獲得されえないが それと同様に 芸術の本質はより高次の諸概念からの導出によっても獲得されえない というのは このような導出も われわれが前もって芸術作品と見なすものをまさに芸術作品として われわれに提示するのに十分でなければならないあの諸規定を 前もってすでに洞察しているからである しかし 眼前のものからさまざまの作品を寄せ集めることも 根本諸命題から導出することも ここでは同等の仕方で不可能であり それらが実行されるなら 自己欺隔である

 したがって、われわれは堂々めぐりを遂行しなければならない このことは窮余の措置ではないし また欠陥でもない この道に足を踏み入れることは強さなのであり そして 思索が手仕事であるとすれば この道にとどまることは思索の祝祭なのである 作品から芸術への主要な歩みが 芸術から作品への歩みとして循環であるというだけではない われわれが試みる個々の歩みのいずれもがこの円周をめぐるのである 作品の内で現実的に支配している芸術の その本質を見出すために われわれは現実の作品へと赴き 作品に対しそれが何であるか そしてどのようにあるのかを問おう

 

 この話は続きにて あまりに面倒な内容だったので 音楽はかっこいいトリオで 二つの言葉をくれた方へのプレゼントでやんす Harvey Mason好きだったなあ 

 

んじゃ

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