恍惚です


201107161.jpg 物質的恍惚  ル・クレジオ (著) 豊崎 光一 (翻訳) 
ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオ 2008年のノーベル文学賞受賞

ふりむくと
一人の少年が立っている
彼はハイセイコーが勝つたび
うれしくて
カレーライスを三杯も食べた

ふりむくと
一人の失業者が立っている
彼はハイセイコーの馬券の配当で
病気の妻に
手鏡を買ってやった

ふりむくと
一人の足の悪い車椅子の少女がいる
彼女はテレビのハイセイコーを見て
走ることの美しさを知った

ふりむくと
一人の新聞売り子が立っている
彼の机の引き出しには
ハイセイコーのはずれ馬券が
今も入っている

もう誰も振り向く者はないだろう
うしろには暗い馬小屋があるだけで
そこにはハイセイコーは
もういないのだから

ふりむくなふりむくな うしろには夢がない

ハイセイコーがいなくなっても
すべてのレースは終わるわけじゃない
人生という名の競馬場には
次のレースをまちかまえている百万頭の
名もないハイセイコーの群れが
朝焼けの中で
追い切りをしている地響きが聞こえてくる
 
だが忘れようとしても
眼を閉じると
あのレースが見えてくる
耳をふさぐと
あの日の喝采の音が
聞こえてくるのだ


 まったく関係ないと思われる寺山修司の「さらばハイセイコー」である 短くしていることを許して欲しい なぜクレジオの本を紹介するのに寺山なのか 私が寺山修司を好きだったのは これまでのブログの中でも書いたりしている 実はクレジオを知ったのは 寺山の対話集「地平線のパロール」 の中である (スペイン・バルセロナにおける寺山修司とフランス ヌーボーロマンの作家ル・クレジオとの対話「事物のフォークロア」から始まっているのだ) そのうち寺山修司の事もブログに載せよう(私にとっては重い課題 青春の苦悩に近い) 寺山は47歳で死んでいる・・・大脱線おしまい

 クレジオの本は確かに難しいが読みやすい(好みの問題) 流れるようであり 語りかける力を感じる この本はエッセイ集だからよけいに直接性を感じるし情景が浮かびやすく楽しい? クレジオの若い頃の作品だが 広い視野から繊細な感覚で自然への畏敬の念を綴る
「ぼくが生まれていなかったとき 世界は見棄てられていた ぼくが死んでしまうとき 世界は見棄てられてしまうだろう そしてぼくが生きているとき 世界は見棄てられている」 -- ル・クレジオ「物質的恍惚」 生以前の虚無と以後の虚無の表現    

 死が生の完遂であり 生に形と価値を与えるものであり 生の円環を閉じるものであるのと同様に 沈黙は言語と意識との至高の到達である ひとが言う あるいは書くすべてのこと 知っているすべてのことは そのために まさにそのためにあるのだ・・・沈黙のために

 私にクレジオを深く語ることは出来ない 「物質的恍惚」は 400ページを超えるがどこから読んでも大丈夫 もちろんすべてに頷けるわけではないが 気楽に巨匠の感覚に触れることが出来る 詩のように観て読んで

「ふりむくなふりむくな うしろには夢がない」 って良い言葉だと思いませんか また寺山
じゃあクレジオは

「ぼくは死んでいる 生きている 死んでいる 生きている 何百回も死に 同時に生きている」
「人間の可能性の数々には限りがない だが彼の不可能性 彼の大いなる 宿命的な不可能性 このほうは 唯一無二である」
「ぼくがいようが ぼくぬきであろうが 世界は綿密であり 何一つとしてそこには不足していない」
「哲学は それがちょっと祈りのようなものでないかぎり ぼくには興味がない」


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